概要

尾小屋鉱山は、明治10年代から本格的な採掘がはじまり、90年余、日本有数の鉱山として繁栄した鉱山です。

当館は、その尾小屋鉱山にまつわる資料館です。
尾小屋鉱山に関する歴史的資料や鉱石や鉱物資料を紹介する「資料館」と、昔の坑道を利用した「マインロード」から成ります。

資料館では、尾小屋鉱山や鉱物について幅広く学んだり魅力に触れたりできます。

また、マインロードでは、採掘の様子などが再現されており、当時の雰囲気を体感できます。内部は1年を通じておよそ摂氏15度の気温で、夏の暑さからの逃避にも適しています。

資料館の様子

マインロードの様子

尾小屋鉱山の歴史概要

尾小屋鉱山の始まりは詳しくは知られておらず、本格的に採掘がおこなわれるようになったのは明治時代に入ってからです。

明治13年(1880)、吉田八十松らが採掘を始め、加賀藩の家老の家柄の横山家13代・横山隆平と、その叔父・横山隆興が加わりました。翌14年(1881)に、横山隆平が鉱業権の取得を進め、同15年(1882)には横山隆平単独所有となり、また「隆宝館・尾小屋鉱山」と命名しまし、本格的な鉱山経営が行われるようになりました。明治19年(1886)に良質な鉱脈を発見したのを機に、産銅量は増大し、経営が安定し、積極的な経営拡大へと転じます。

明治37年(1904)には、尾小屋鉱山と平金鉱山(岐阜県)を合併し、合名会社・横山鉱業部を創立し、日本有数の鉱山へ発展しました。

しかし、大正9年(1920)より経営が悪化し、昭和6年(1931)に宮川鉱業に売却され、続いて日本鉱業株式会社へ譲渡されました。日本鉱業は、戦争期の増産やその後の操業中止などを経て、昭和30年頃(c.1955)に生産のピークを迎えます。

ところが、良質鉱の枯渇、製錬コスト上昇、外国から安価な銅の輸入増大などにより、次第に経営が悪化し、昭和37年(1962)には尾小屋鉱山本山が閉山しました。日本鉱業株式会社から分離独立した北陸鉱山株式会社が続けていた大谷支山(大谷坑・金平坑)を中心とする操業も、昭和46年(1971)には閉山し、これをもって尾小屋鉱山の全面廃止となりました。

(もう少し詳しく知りたい場合は、下のファイルリンクをクリックしてください)

横山家経営期の尾小屋鉱山(本鋪坑口)
横山家経営期の尾小屋鉱山(本鋪坑口)
尾小屋鉱山事務所(昭和33年=1958)
尾小屋鉱山事務所(昭和33年=1958)

本日開館9:00~17:00